ちゃんと伝わる日本語を使う

デザイナーとして「ちゃんと伝わる日本語を使いたい」と思う。サービスの説明文や、ユーザに送るメールの内容、on boardingの言葉など。紡ぐ文字はすべてインターフェイスだし、マーケティング、コピーライティングにも深く関わってくるので、伝わる文章を書けることに越したことはない。これは当ブログの裏テーマでもある。自己流俺々文章論に歯止めをかけるべくウェブを探しまわった結果、これ一冊読めばいいんではないかと思うぐらい素晴らしい本「日本語の作文技術」に出会った。この本は「読む側にとってわかりやすい文章を書くこと」にのみ集中して書かれているので、人になにかを伝える仕事をしている人にとって必読な気がする。ということで、今回はその出会った経緯と簡単な内容に触れてみた。

経緯

たとえば文章を書いているときに「どこにテンを打つのがいいんだろう?」と頭を悩ませたりする。見かけは小さな問題かも知れないが、テンをどこに打つかで意味がガラッと変わってしまったり、メッセージの重さが大きく変わったりすることはよくある。ある一定の「読みやすい文章」をつくるための原則をちゃんと知らないと、「なんとなくこっちのほうが」系のアウトプットになってしまい、主張も批判もできたもんじゃない。「なんとなくこっちのほうが」は読む側が感じ取ればいいし、読ませる側はそれをコントロールしなくちゃいけないよな、と考えながらも自己流を貫いていた。

一通り調べたところ、この「句読点の打ち方/句読点の付け方──簡略版」に書いてあることが、一番まとまっていて勉強になった。とはいっても、リンク先でも言われているように「ネットで目にする記述はほとんど信用できない」し、自分ではその良し悪しが判断しづらい。「確実なソースを知っていることこそ、今の情報社会を生きるうえで大切だ」と偉い人が言っていたので、上記リンク先にて触れられている「日本語の作文技術」という30年売れ続けている本を買ってみた。長くなったけど、以下がそのまとめ。

修飾の順序

  • 節を先に、句をあとに
  • 長い修飾語ほど先に、短いほどあとに(強調する場合は短い方を先に)
  • 大状況・重要内容ほど先に
  • 親和度(なじみ)の強弱による配置転換

上から順に重要で、特に上2つはほぼ同等の重役を担ってる。

句読点のうちかた

  • 長い修飾語が2つ以上あるとき、その境界にテンをうつ
  • 原則的語順が逆の場合にテンをうつ(修飾の順序の2つ目参照)
  • 筆者の思いをテンにたくす場合、思想の最小単位を示す自由なテンもある

「テンというものの基本的な意味は、思想の最小単位を示すもの」と筆者は定義していて、この考え方はマークアップでいうところのBEMの思想に通ずるものがあって、すんなりと理解できた(ちなみに修飾は英語でModifireと訳される)。マルで区切られた文章はそれぞれの「思想のまとまり」にあたる。テンで切る部分は思想の細胞で、マルで切る一文は組織の最小単位、たとえば血液・筋・脂肪・毛などのこと。その次の大分類である「段落」が指だの脛だのにあたり、「章」が頭やら胴体やら手に相当して、最後にそれらがひとつの本や論文になって思想の全体(人体)ができあがる。

段落

段落は身体でいうところの小部分。たとえば足という「章」は、小指・親指・すね・もも・ひざなどの要素の集まり。そこに「血液」が仲間入りすることはなくて、血液はそれ以前の組織としての「文」(センテンス)からなる。段落はまとまった思想表現のあつまり。足でいえば、各部分の境の関節が改行にたる。だから段落は、文の意味が変わるたびに「必然的に」改行される。「関節でないところを強引に曲げたら、骨が折れるであろう。重症である。」という言い回しがとてもわかりやすかった。以下の文章が生々しくて説得力があったので、とても印象に残った。

もし改行すべきかどうか自分でわからないとすれば、それはもはや理論的な文章を書いていないということである。まとまった指・まとまった脛・まとまった腿が、関節によってしっかり結び付けられてゆくのでなければ立派な足にはならない。

また、外山 滋比古著「日本語の理論」から引用があったのでそれもメモ。

たいていの人間は、文章を書くときに、自分はふだん、どれぐらいの長さのパラグラフを書いているか、ほとんど自覚していない。改行をつけるのも、全くでたらめで、だいぶながくなったからそろそろ改行しようか、などと言って行を変えている。パラグラフの中をどういう構造にするかをはっきり考えたことはほとんどないのだからやむを得ないが、これではよい文章が書きにくいわけである。また、書けた文章がしっかりしない骨なしみたいになる道理である。

紋切型・繰り返し・自分が笑ってはいけない

紋切型という言葉を知らなかったが、「きまりきった型」から転じて「型通りで新味のないこと」をあらわす。著者はこれを「ヘドの出そうな文章」の例として明快かつ痛快にバサッと切り捨てている。「ガックリと肩を落とした」など、描こうとしている本来の姿と違うイメージを脚色して文章を大げさにしたりするときに使われることに対して、お怒りだった。本当にその人は肩をガックリと落として悲しんだのか、人が悲しむときはもっと無言で胸の内で悲しむのではないかと、本質をエグろうとする筆者の男気を感じた。

繰り返しは、例えば「〜できます。〜もできます。〜できます。」などの文末が各段落で頻発することをいっていた。サービスの説明などでありがちなパターンだ。繰り返しは文章を単調にするし、単調な文章は読者を飽きさせるので、これは注意したい。

自分が笑ってはいけないというのは、たとえばお笑い芸人が自分のネタを「笑える話がありましてね、、、」と笑いながら話すようなもの。これはよくいろんな記事でも見るし、「ねーねー聞いてよー、これ超おもしろくなーい?」と女子高生がスタバで話してるのをたまに聞く。残念ながら、そういう話はたいていおもしろくない。以下のように筆者もおもしろくないとのこと。

おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体がおもしろいときであって、書く人がいかにおもしろく思っているかを知っておもしろがるのではない。美しい風景を描いて、読者もまた美しいとおもうためには、筆者がいくら「美しい」と感動しても何もならない。その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するのでなければならない。


読んでいて、「あーこの人は本当に文章のプロなんだな」と思った。著者の本多勝一さんは元朝日新聞の方で、やっぱり言葉を武器に戦ってる人の視点は繊細で、読む側のことをだれよりも考えてるという熱が伝わった。書く人とそれを読む人が存在する限り、時代とともにニュアンスは変われど、この原則は廃れない。廃れないどころか、去年の暮に読んだ「リーダブルコード」に書いてあった「誰が見ても趣旨が伝わらなければならない」という点は、共通するものを感じた。ということでこの「日本語の作文技術」は、枕元においておきたまに読み返したい。この文章が本当に伝わっているのかという不安を抱えつつ、これからも意識して書いていこうと思う。